Office Ton Pan Lar

Consideration of International Affairs by Office Ton Pan Lar

民主化だけでは国民は幸せにはならないと思うのだが ODAビジネス優先論に関して

永井浩氏による『日本の対ミャンマー政策はどこで間違ったのか 世界の流れ読めず人権よりODAビジネス優先』が2021年4月7日にNews Weekに掲載された。実際に経済成長を実現させた開発独裁を否定する論調には些か違和感を感じる。民主化だけでは国民は幸せにはならないと思うのだが。

 

f:id:tonpanlar:20210409105825j:plain


<ODAは軍政を民主化へと前進さていくために供与している、という日本政府の主張はやはり欺瞞だった>

ミャンマーと日本にかかわる古くて新しい話をつづけたい。自国民だけでなく、世界中から爪はじきされている国軍に対して日本政府が毅然たる姿勢をしめせない理由を理解するには、戦後日本のアジア政策にまでさかのぼる必要があるからだ。そこで見逃せないのが、各国の開発独裁政治に果たしたODA(政府開発援助)の役割である。

 

アジアの開発独裁と日本のODA


アウンサンスーチー氏に1995年にはじめてインタビューしたとき、彼女が「経済発展には民主化が不可欠」と力説するのを聞き、私はとくに目新しい発言だとは思わなかった。むしろ、「なるほどそうなのか」とミャンマー民主化運動の最大の争点のひとつがよく理解できた感じがした。というのは、「開発」とは何かという問いは、ほかの東南アジアの国々でも国民の新しい声としてたかまってきていて、彼女たちの運動も基本的にはそれと同じであることが確認できたからである。

 

東南アジアの国々にとって、第二次大戦後の最大の課題は欧米の植民地支配からの政治的独立と経済の非植民地化だった。独立を達成した各国は、西欧モデルの国民国家を建設していく政治統合とともに、工業化による経済発展を最大の課題とした。タイは植民地化をまぬかれたものの、英国帝国主義によって農産物依存の経済となっていた。植民地支配の遺産であるモノカルチャー型の一次産品依存の低開発を脱して、経済発展によって国民の豊かさを達成することが、政権の正当性(legitimacy)を保証するものだった。

そこで政治指導者が選択したのが、開発独裁体制だった。欧米列強の支配によって民主的な勢力の成長が阻まれてきた各国において、開発の主導的役割を果たせる組織的勢力は軍以外まだ不在であるとされ、最優先課題の経済成長を達成するには欧米的な議会制民主主義は国情に合わないと彼らは主張した。こうして、軍人、官僚、政治家たちエリート層が主導する権威主義体制下での経済開発が進んでいった。

タイでは1953年にサリット元帥がクーデターで独裁政権を樹立、インドネシアでは66年にスハルト将軍が実権を掌握、フィリピンで65年に大統領の座に就いたマルコスは弁護士出身の文民だったが軍をとりこみ独裁政権を確立した。シンガポールリー・クアンユー首相も弁護士出身の政治家だったが、超管理体制を築き上げ、65年以降事実上の一党独裁を維持してきた。ミャンマービルマ)では1962年にネーウィン将軍がクーデターで議会制民主主義を廃止、長期独裁政権をスタートさせた。東アジアでも、韓国で61年の軍事クーデターで実権を握った朴正煕少将が開発独裁体制を確立した。

 

経済開発のために、各国指導者は外資の積極的導入による輸出志向型工業化を進めた。米国、日本などの西側先進国からの援助と投資を積極的に受け入れると同時に、一次産品などの先進国への輸出で外貨を獲得した。また、外資の投資環境整備のため強権による政治的安定がはかられ、民主主義の抑圧、野党の弱体化、共産党の非合法化が進められた。

外資のなかでも東南アジアで大きな存在感をしめしたのが、日本だった。敗戦の荒廃から立ち直り復活した日本資本主義は、新たな市場を国内から東南アジアにもとめはじめ、各国への戦争賠償を利用して市場進出の道筋をつけると、戦争賠償の終了とともにODAを各国に重点的に供与した。インドネシアを筆頭にASEAN東南アジア諸国連合)加盟国への供与額は、日本の世界全体のODA供与額の半分以上となった。ミャンマーASEAN加盟国ではなかったが、日本が最大の援助供与国となった。[
ODAは道路や港湾、空港、工業団地、発電所などインフラ整備のための大型プロジェクトを中心に投与され、それが各国の経済開発に貢献したことは事実だが、同時に日本にとっても「金のなる木」であった。プロジェクトの青写真は日本の商社などが描いて相手国政府にしめす場合が多いといわれ、プロジェクトは日本企業と現地の有力企業が受注した。それとともに、ODAビジネスの利権をめぐる日本の政治家や企業と独裁政権のトップとそのクローニー(取り巻きの政治家、財界人)との間の汚職、腐敗が指摘されるようになる。1986年のマルコス政権、98年のスハルト政権の崩壊後、援助がらみの不正蓄財とみられる「マルコス疑惑」、「スハルト疑惑」が政治問題化した。

 

日本の経済援助を米国も支持した。供与国はいずれも反共国家であり、指導者は民主主義を抑圧する独裁者であっても、経済発展がすすむことは冷戦体制下で共産主義にたいする優位をしめすことになるからである。米国は独裁政権下の人権、民主主義の侵害に目をつむった。また、ODAがアジア諸国の経済発展に貢献しているという政治家や開発経済学者らの言説は、戦前からの日本の「アジアの盟主」意識をくすぐった。スハルト、マルコス、タイの開発独裁の指導者たちは、日本では「親日」と呼ばれた。

しかし、開発独裁はしだいにほころびが目立ってきた。「経済発展には民主化が不可欠」とするスーチー氏の主張は、それがミャンマーでも例外ではないことを指摘するものだった。

 

開発の時代から民主化の時代へ


上からの経済開発はたしかに各国のGNP(国民総生産)の増大をもたらした。工業化への「離陸」に成功したタイやインドネシアは中進国、シンガポールは先進国へと成長、韓国も「漢口の奇跡」とよばれる高度成長をとげた。だが開発のバランスシートもあきらかになってきた。富の不平等な分配による貧富の格差の拡大、環境破壊、地域共同体の解体、エイズの急増などの諸問題が深刻化していったが、それらの解決をもとめる国民の声は権威主義的な政治体制によっておさえ込まれた。国民はこれまでの開発概念の問い直しをはじめた。

これまでの開発は、工業化による経済成長によって国民の物質的な充足をめざしてきたが、そのために人間は成長のための手段としかみなされず人権は尊重されなかった。そうではなく、人間の発展こそが開発の目的であり、開発はそのための手段であるはずであるという、新しい開発理念が提唱されるようになった。この目標を実現するには、軍人や権威主義的政治家、官僚主導の開発独裁にかわって、すべての国民が開発過程に参加できる新しい政治モデル、つまり民主主義体制が確立されなければならない。経済成長至上から、開発・環境・人権・民主化ジェンダーの両立する発展をめざす運動が各国で盛り上がってきた。

その担い手も、開発独裁体制下での民主化運動の中心だった学生、市民、知識人だけでなく、経済発展とともにうまれてきた新興ビジネスエリート、都市中間層、開発の恩恵から取り残された農民や都市貧困層へと多様化し、社会的弱者の声を代弁するNGO(非政府組織)も成長してきた。

タイではすでに1973年の「学生革命」によって軍部主導の開発独裁体制が打倒され、民主化の時代をむかえた。民主化はその後、軍部の反撃で冬の時代に入るが、国民各層の粘り強い抵抗によって少しずつ前進をつづけた。フィリピンでは86年、マルコス独裁政権が「ピープルパワー」によって打倒され、民主化をめざすアキノ政権が誕生した。韓国では87年、盧泰愚大統領が民主化宣言を発表、長年にわたる権威主義体制から民主主義への移行が開始された。88年にはミャンマーで広範な国民が民主化運動に立ち上がった。中国でも89年、共産党一党独裁による開発独裁と腐敗に抗議する学生、市民らが民主化をもとめる行動に立ち上がり、北京の天安門広場に結集した彼らが人民解放軍によって弾圧される天安門事件が起きた。

経済発展と民主化にかんするスーチー氏の発言に私が同感したのは、こうしたアジアの民主化への胎動を知っていれば当たり前の反応だった。また彼女がおなじインタビューで軍事政権の市場経済化政策についてこう答えたのも、各国の民主化がめざす新しい発展モデルと通底している。

「軍事政権のかんがえる開発とは、統計数字だけを問題にし、人間の価値は尊重していません。労働者は劣悪な条件で長時間労働を強いられ、単なる労働資源としかみなされていません」

アジアにおける同時多発的な民主化運動の台頭と並行して、東欧では89年のポーランドにおける自主労組「連帯」の自由選挙での勝利を起爆剤に、ハンガリーチェコルーマニアで民衆による社会主義独裁政権打倒がすすんでいく。この民主革命のクライマックスが「ベルリンの壁」の崩壊であり、これをうけて米ソは同年11月の首脳会談で「冷戦の終結」を宣言する。さらに91年末には、冷戦時代に世界の覇権を米国と競ってきたソ連が崩壊する。

冷戦の終結ソ連・東欧共産主義体制の崩壊を、米国は「西側の勝利」と位置づけた。政治的には、ソ連全体主義に対する欧米自由主義の優位が証明されたとして、民主主義、人権の普遍性が強調されるようになる。ホワイトハウスは「人権外交」を展開し、冷戦下ではソ連への対抗上支援してきた世界の独裁体制国家に対して民主化を進めなければ援助を打ち切るとせまるようになる。

アジアの開発独裁型の国々の指導者は、欧米先進国が人権尊重をかかげて内政に介入してくることをおそれ、アジアには欧米とはことなる「アジア的価値観」があり、それにしたがって独自の発展路線を進もうとしているのだと反論したが、民主化をもとめるそれぞれの国の人びとには説得力をもたなかった。

ミャンマーの軍事政権は、民主化を主張するアウンサンスーチーは自国の現状をしらない欧米の手先と批判したが、敬虔な仏教徒である彼女は、すべての人間の平等や非暴力を説く仏教の教えにもとづき、ミャンマーの伝統的価値観を政治において実践しようとしているのは軍政か民主化勢力のどちらであるか、と国民に問いかけた。「民主主義のなかには、仏教徒が反対しなければならないようなものは、なにひとつありません」と彼女は反論した。

 

ミャンマーにおける日本の官民連合と国軍


米国の人権外交に問題がないわけではない。だがミャンマーには対しては、米政府は民主化を弾圧する軍事政権に経済援助や投資を武器に制裁をくわえ、スーチー氏らを支援しつづけた。今年2月1日のクーデター後も、米国の基本姿勢は変わらない。

日本政府は当然、アジアにおける開発から民主化へという時代の流れや、冷戦後の人権、民主主義の普遍性尊重という国際社会の潮流を知らないはずはない。また、米国との価値観を共有する同盟国という外交政策の看板の大切さも理解している。かといって、経済援助をつうじたミャンマーの軍政への長年の肩入れと、それがもたらすODAビジネスをやめるわけにもいかない。そこで持ちだされたのが、ODAは軍政を民主化へと前進さていくために供与しているという、いわゆる建設的関与政策なるものである。

しかしこの主張がいかに欺まんにみちたものであるかは、クーデターから2ヶ月ちかく経つ3月25日にロイター通信が流したニュースが実証している。

「日本の官民連合、ミャンマーで不動産開発」と題する記事はこう報じている。

 

ミャンマーで総額300億円以上の不動産開発事業を進める日本の官民連合が、ホテルやオフィスなど複合施設を建設する用地の賃料を支払い、それが最終的にミャンマー国防省に渡っていたことが分かった。ロイターが取材した複数の日本企業、政府関係者が認めた。

ヤンゴン市内都市開発(Yコンプレックス)」と呼ばれるこの事業が、ミャンマー国防省の利益につながっていたことを日本側が認めたのは初めて。日本側は賃料の支払い先が国防省であり、ミャンマー政府だと認識していたが、国防省は2008年に制定された憲法上、国軍の支配下にある。

同事業には日本から大手ゼネコンのフジタコーポレーション、大手不動産の東京建物のほか、日本政府が95%を出資する海外交通・都市開発事業支援機構(JOIN)が参画。政府系金融機関国際協力銀行JBIC)も融資をしている。

賃料を支払うのは違法ではないものの、事業が始まった2017年は、ミャンマー国軍によるイスラム教徒の少数民族ロヒンギャへの人権侵害が問題となっていた。国際司法裁判所は虐殺について調査を進めている。国軍は今年2月には軍事クーデターで政権を奪い、これまでに、抗議活動に参加した市民260人以上を殺害している。

ミャンマー国防省、国軍のコメントは得られていない。

 

JBICが2018年に発表したニュースリリースによると、融資は三井住友銀行みずほ銀行との協調で実施。両行ともロイターの問い合わせにコメントを控えた。

Yコンプレックスに対する今後の関与についてJOINの担当者は、コメントを避けた。現在の状況については「悩ましい。難しい」と述べるにとどめた。

フジタと東京建物はそれぞれ電子メールで回答し、状況を注視しながら関係者と協議し、対応を検討するとしている。